アシリカル1-1

 

 アシリカルとカントの出会い

 里(コタン)からそう遠くない草原に春の暖かい風が吹いていた。空は青々と澄み、白い雲が綿のように浮かび、草原と山は緑の草と葉をつけている。太陽(チュプ)は白金に輝き、山の鳥たちのさえずりが響いていた。
 その草原の斜面で里の少女、アシリカルが腕を枕にして寝転がっていた。肩まである褐色の髪、大きな褐色の瞳、白い肌、桃色の頭帯(マタンプシ)、生成り地に桃色の縁取りの衣(アツシ)、着物を締める青い帯(クッ)には白い糸で交差させたような模様の刺繍が施され、着物の下に桃色のひざ丈の下衣、両手には青い手甲(テクンペ)、足元は青い脚絆(ホスィ)と魚皮靴(チェプケリ)を身につけている。そして腰に山刀(マキリ)。
 アシリカルは春風に当たり、目で雲の流れを追い、鳥の鳴き声を耳にして、この国の春を五感で感じ取っていた。
(ああ、気持ちがいいなぁ。この季節に生まれて良かったなぁ。もうすぐわたしの誕生日が来る)
 アシリカルは春の半ばに生まれ、今年十五歳。普段は農婦を営む母の手伝いか狩人をやっている父の手伝いをしたり、洗濯、裁縫、料理などの家の手伝いをしたり、和人対策のために剣舞の修業が日課いなっている。それから祖母からユーカラを教えてもらい覚えたけれど、それもつまらなく感じた。
「あ、ワシだ」
 アシリカルは東から飛んできたワシを見て、呟いた。
「鳥はいいね。空を飛べて、この大地の果てへと飛んでいけるから。わたしも、この国を出られたら、どんなにいいか……」
 アシリカルがぼやいていると、声が飛んできた。
「アシリカルー!」
 アシリカルがその声に反応して、半身を置き上げて振り向くと、友人の少女ランコが草原の上方にある杉の下に立っていた。ランコはアシリカルと同じく今年で十五歳だが、アシリカルより後から生まれたため現在十四歳。アシリカルより少し小さな背丈で、長く腰まである黒髪、白い肌、黒い瞳、丈長の白地の着物(アツシ)、頭帯(マタンプシ)と着物の縁取りは黄色で、着物を締める黒い帯には細やかな白い糸の刺繍が縫い付けられている。
「なーんだ、ランコか」
 アシリカルはランコを見ると、寝直した。
「何だじゃないわよ、アシリカル」
 ランコがアシリカルの方へ駆け寄る。
「また剣舞の修業を怠けて! 剣士長(エムシニシパ)が怒っていたわよ。アシリカルはわたしと違って力があるんだから、剣舞ぐらいはちゃんとやりなよ」
 ランコはアシリカルを叱る。
 アシリカルの国――カムイシレペツは、和国の北にある広大な土地を持つ島国で、和人とは違った種の北方人種が住んでいた。二〇〇年前までは和国や他の国とも交流がなかった。しかし、和人の侵略で族領が和人の植民地にされそうになったり、女子供のカムイシレペツ人が和人に連れ去られたりとあったが、アシリカルが三歳の時に成立した本土北方交友条約という決まりで、和人や他の国との交友が広まった。
 カムイシレペツで獲れる熊やラッコやアザラシなどの毛皮やアツシ服やチポロ(イクラ)と和国の錦や絹や米などの穀物を交換したり、アシリカルが物心つくまでなかったカムイシレペツ人に和国で使われる漢字やひらがなを与えたり、劇や絵などの娯楽の文化をカムイシレペツの人間に伝えたりと発展化が進んでいった。
 言葉で伝えていたカムイシレペツの人間は文字を覚え、ユーカラ集や文学の本を読むようになり、計算を覚えたり暦を読んだりと今に至っている。
 アシリカルの世代では、六歳以上から文字の読み書きや計算を学んだり、個人によって農学や薬学などの知識を覚えることで職に就くことが多い。
 アシリカルの住む里――チュプカントコタンは、カムイシレペツの南東に位置する土地で人々は農業や狩り、基本的な衣食住を学んで生きてきた。チュプカントに住む民は日光の民(チュプヌペキ)と呼ばれ、女性も戦いの場に出る事がある。男が外に出て敵と戦っている時、村を守るのは女性の務めであるからだ。
 アシリカルは力はあるのだが、剣術の鍛錬をよく抜け出して里(コタン)の外に出ることが多い。
「今は平和だから、のんびりしたっていいじゃない」
 アシリカルはランコの言葉を無視してのびをする。
「今は平和(・・・・)だからいいけど、もしも他の部族領や和人が土地の侵略に来た時のために、修業が必要なの。戻って、夕方までに受けておきなよ」
「わたしは剣舞の修業なんかより、里(コタン)の外、いやこの国の外に出て、いろんな景色や人や生き物を見たいんだ。一つの場所になんか留まれないよ」
 アシリカルは呑気に言った。
「外に出たら……何がしたいの?」
 ランコが溜息をつきながら訊く。
「そりゃもちろん、そこの土地しかいない生き物や景色を見た事を里のみんなに話したいんだよ。ワシもフクロウも兎もカワウソも狼も見慣れちゃったからね。国の外に住んでいる人もどんな人か見たい」
 アシリカルは自分の夢をランコに話した。
「それは凄い事だけど……そう簡単に世の中は優しいものじゃないんだよ。いまのまんまでいいと思うけど」
「ランコは普通の事ばかり考えているから夢を持たないんだよ。もっといい事かんがておけばいいのに」
 ランコは二度目の溜息をつくと、アシリカルに言った。
「アシリカルの夢もいいけれど、今の生活も大事だからね。わたしは家に戻るけど、アシリカルも今のうちに剣舞の修業に戻りなよ」
「はいはい」
 アシリカルは能天気に返事をした。ランコが去った後も、アシリカルはそこにいた。相変わらず雲の流れを目で追っている。
 その時、東の空から何かが落ちてきて、アシリカルから見て真っすぐの小山のふもとのニセウ(ドングリ)林の中に入ったのを見たのだ。
「なっ、何だ!?」
 アシリカルは起き上がり、ニセウ林に何が落ちたのかを確かめに駆け出して行った。アシリカルは草原を降りて、橋の丸太で小川を渡り超えて、林の中に入っていった。ニセウの林は木の枝と生い茂った葉で隠れているため、日光の木漏れ日が入ってきている。足場はそれほど暗くはないが、マムシには注意して進まなくてはならない。
「確か、この辺なんだけど……」
 アシリカルがニセウ林をうろついていると、林の中でニセウの木が何本か折れ、木が折れた所に大きく日光が入り、その折れた木々の上に一羽の大きな鳥がいたのだ。
 ワシやタカではなく、チュプヌペキをはじめとするカムイシレペツ者たちがが獰猛で人間には懐かないと云われている怪鳥フリィだった。
(フリィだ……。本物のフリィを見たの、生まれて初めてだ……)
 アシリカルはフリィを間近で見つめる。フリィの事はユーカラや絵で見たぐらいで、本物を今日まで見た事がなかった。明るい橙の羽毛と濃い青の羽毛、嘴と蹴爪は銀色で、嘴は長くて。ワシのように先が曲がっている。羽毛の配色も全体のほとんどが橙で、両翼の先端と喉から腹にかけての部分が青く、尾は二つに分かれ、ピンと張っているのだ。
(あれ。このフリィ、小さいなあ。ユーカラでは、小山のように大きいと云われているのに、このフリィは熊のようだ)
 アシリカルは不思議とこのフリィが怖いと思わず、ケガをしたスズメのように見えたのだ。その時、フリィがピクッと背中を震わせた。そして閉じていた瞼を開いて、アシリカルに金色の瞳を向けたのだった。
「わっ。生きてた……」
 アシリカルはフリィが動き出したのを見て驚いた。それからフリィは喉をふるわせて、アシリカルに声を向けた。
「こ、ここは、どこ……」
 フリィの子供は凛とした声を出して、アシリカルに訊いた。
「鳥さん、喋れるの……? ここはチュプカントコタン近くの小山のふもとのニセウ林よ。ケガとかしてない? 大丈夫かなぁ」
 アシリカルはフリィに言うと、フリィの子供は大丈夫だと言う風に首を振った。
「ただ、喉が渇いてお腹が空いているんだよ。でも、ぼくは飛ぶのが下手でえさも探せない……」
 そう言いながら、大粒の涙をこぼした。子フリィの涙が地面に落ちて弾けた。アシリカルは人差し指をこめかみに当て、溜息をつく。
「んもう、仕方ないなぁ。じゃあ、わたしが水を汲んできて魚を獲ってきてあげるから。でも、そのうち一人で獲物を捕まえられるように、までよ」
「うん……」
 フリィは軽く頷いた。アシリカルは近くにあったお椀状に削られている石を見つけ、それを子フリィに飲ませる水を入れることにした。ニセウ林近くの小川で水を汲み、川に足を入れて、イチャニウ(マス)とスプン(ウグイ)を手探りで捕まえた。つかもうとするたび魚が跳ねるので、アシリカルは何度も水をかぶった。春といえど川の水は雪を入れた水のように冷たく、おかげで手足も赤くなってしまい、衣(アツシ)も濡れてしまった。
 アシリカルは捕らえた魚六匹と小川の水を子フリィの所へ運んで行った。フリィは器型の石から水を飲み、魚を尖った嘴でぶつ裂きにして食べた。子フリィが食べ終えるとアシリカルは思い切って子フリィに訊いてみた。
「ねえ、あんたはどこから来たの? お父さんとお母さんは?」
「……カムイコロヌプリから来たの。この国で一番高い山の頂上から」
「カムイコロヌプリ……」
 カムイコロヌプリはカムイシレペツの中心にあり、国一番の高い山と云われ、村の大人達から聞いた話では、あそこのフリィが住んでいて、時折山から下って地上の川や湧水を飲みに降りてくるという。大人のフリィは全長七里の(二十八キロ)という大きさで、獰猛で人に懐かない。フリィに懐くのは神さま(カムイ)だけ。カムイだけがフリィを手なづけ従わせるという。
「ぼくや兄ちゃん達、大きくなったら飛ぶ練習をしろと言われて、山から飛ぼうとした。でもぼくは兄弟の中で一番小さくて、ここに落ちて……」
「なるほどね。落ちてしまったけど、木が落ちる時の衝撃を防いでくれたんだ……。でも、調べてみたけどどこもケガしてないから大丈夫よ。
 ええと、あんたは……」
 アシリカルはこの子フリィを何て呼べばいいからわからず、戸惑った。
「名前、なんていうの……」
「ナマエ? なに、それ?」
「ええと、わたしが人間という生き物で、一人一人にその人だけの名前があるの。わたしはアシリカルというの」
「アシリカル?」
「そう、アシリカル。〈新しく作る〉って意味よ。あんたはフリィの……何ていうの?」
 するとフリィはきょとんとする。
「ナマエ? ない。みんなからはチビと呼ばれていて……」
「チビ? フリィにしてはらしくない名前ね。だったらわたしが付けてあげる。そうね、カント! カントはどうかしら?」
「カント?」
「そう、カント。〈天空を舞う巨鳥(フリィ)〉にふさわしい名前でしょ?」
「カ、ント……。カント……」
 フリィはアシリカルから与えられた名前を繰り返す。
「ぼく、フリィのカント……。ぼくの名前、カント!」
「よし、決まりね。カント、よろしく」
 アシリカルは右手をカントに差しだした。
「何するの?」
「握手。仲良くなった時にやる事よ」
 アシリカルはカントに言い、カントも自身の右翼をアシリカルに差しだした。こうして人間のアシリカルとフリィのカントは仲良くなった。
「あっ、お日様が西に傾いている。もう帰らないと」
 アシリカルは林のあいた空を見て、言った。
「帰る? どこへ?」
「里(コタン)よ。わたし達人間はコタンに住んでいて、更に家(チセ)という物に住んでいるの。どうしよう、カント一羽じゃ森林の凶暴な生き物に狙われちゃうか」
 アシリカルがカントを一人だけにしたら困ると考え込む。その時、鹿(ユク)の母子が来てカントの前に立った。それから狐(チロヌプ)、狸(モユク)も。
「あなた達がカントを守ってくれるの?」
 アシリカルが動物達に訊くと、彼らはアシリカルに優しい目を向ける。
「ありがとう……。じゃあね、カント。明日。お日様が来たらわたしは森にまた来るね」
 アシリカルはカントにそう言うと、林を出て小川を渡り、野原を抜けて自身の住むチュプカントコタンに戻っていった。
 チュプカントコタンは平地に各世帯が住む木板の壁と茅葺屋根の家(チセ)がいくつも並ぶ人口二〇〇人の村である。各々の家には井戸と畑、外付けの厠(ヨル)、食料庫(プゥ)が設置されており、コタンの住人は畑で野菜や穀物を作り、他の家の野菜や狩猟肉や漁の魚を交換したり、隣の村へ売ったり、布を織ったり、新しいアツシに刺繍を入れたりと個人の特技や能力に合わせて生活している。
 アシリカルの家はコタンの東にある姫リンゴの生る木がある家である。コタンの住人は日暮れと同時に今日の仕事を終わらせチセに入っていく。アシリカルもチセに入り、帰りを待っていた父と母にあいさつする。
「ただいま、お父さん、お母さん」
 アシリカルは家に入り、父は上座に母は囲炉裏の鍋を料理していた。チセの内部は囲炉裏と座敷、親子全員が寝られる居間だけの家が多い。アシリカルの家は居間の他に客間と二階のアシリカルの自室があった。
「お帰り、アシリカル」
 アシリカルの父が娘に言った。
「お帰り。それより、あなた。また剣舞の鍛錬を抜け出したんですって? ランコから聞きましたよ」
 アシリカルの母がぴしゃりと言った。
「アシリカル、お前は父さんと母さんの一人娘なんだから、里を守る剣士長(エムシニシパ)ぐらいにならないと、立派な個人(アイヌ)に成れないぞ」
 父も厳しく諭した。
「はーい。ちゃんと鍛錬やります……」
 アシリカルの父と母は今から十九年前にこのチュプカントコタンを救った英雄であった。正しくは母トンニはチュプカントコタンの剣士長(エムシニシパ)の娘で自身も剣士であったが、父は別の土地から来た戦士で、チュプカントコタンを襲った魔物、黒い蛇のカムイを倒した事で知られるシュンクであった。二人は村を救った特例として、里長(コタンコロクル)が住むような家を与えられたというのだ。父も母もアシリカルが村の戦士達を引っ張る剣士長(エムシニシパ)になってほしいと願っていた。でも平和な時代に生まれたアシリカルは歌や物語や祝い事、探検が好きな娘になっていた。
 アシリカルは母の作ったキナオハウ(野菜煮込み)と焼きシシャモをかぶりつき、シシャモを食べながらアシリカルは考え出した。
(カント、何をしているのかな……。お腹空いていないかな)
 シシャモを一匹、いや自分のシシャモを全部カントにやりたいと思いながらアシリカルは茶器の水を飲みほした。夕食が終わると、アシリカルは母の手伝いをして、食器や箸の洗浄をした。木の桶に水を入れて食器をつけ置きしてから別の桶で磨いて布巾でふく。アシリカルは剣士の教えの他、女性の仕事である家事も教わっていた。台所はかまどとまな板と壁に吊るされた食器棚という小ぢんまりとした場所である。食べ物は外にある食料庫(プゥ)に保存されている。
 夜眠る時は両親は居間で布団を敷き、アシリカルは二階の自分の部屋で眠る。部屋というよりは屋根裏部屋の方が正しく、木板の床にござが敷かれ、その上に文机や着物を入れるつづら、簡素な本棚にはユーカラ集や絵巻、和国からの物語の本が入っていて、全て紐とじである。屋根の窓からは昼は青空、夜は星空が見えるので、アシリカルは晴れた夜には星空と月を見ながら眠るのだ。床に布団を敷いて普段着とは質素な白い寝着に着換えて夜空を眺めながら、今日の出来事を思い出していた。
(カントは大丈夫かなぁ。春とはいえ、夜の空気は冷たいもんな。そうだ、カントが飛べるようになるまで、わたしが世話してあげよう。フリィとはいえ、まだ小さいんだもの……)
 跳ねっ返りながらも幼子や動物の面倒見がいいアシリカルはそう誓ったのだった。

 空が白々と染まって朝日が昇る頃、アシリカルは目が覚めた。普段は火が昇ってから起きるが、カントの事が気になって早く起きたのだった。桃色縁のアツシと桃色の下衣を着て、マタンプシ、手甲と脚絆を身につけ、両親が起きないようにはしごを下りて、そっと家を抜け出し、コタンを出てニセウ林に入っていった。朝の林はスズメやカケスやキジバトの山鳥がさえずり、草や木の葉が朝露に濡れて日光で輝いていた。
林に行く途中でアシリカルは川でラプ(フナ)を何匹か捕まえてそれをカントにやろうと思っていた。
 林の丸く空いた場所にカントが座っていた。
「おはよう、カント。昨日の夜は大丈夫だった?」
 アシリカルがカントに訊くと、カントは大丈夫だと言うように頷いた。
「うん、大丈夫。森の動物達がぼくを守ってくれたから。あと、朝露を舐めたから喉が渇いたのは平気」
「そう、良かった。あんたが熊や狼に襲われちゃったらどうしよう……って、昨日の夜から考えてて」
 そう言うとアシリカルは、カントの前に近くの川で獲ったラプを差し出した。カントはラプを食べて満足そうな顔をした。アシリカルは空を見ると、太陽の位置を見て、もうすぐ両親やコタンのみんなが起きる頃だと察した。
「カント、わたしはもう帰るね。日暮れになったら、またここに来るから。じゃあね」
 アシリカルはカントにそう言って、コタンへと戻っていった。コタンに戻ると両親はまだ眠っており、アシリカルは今起きたように振る舞った。
 アシリカルの一日は、まず母と共に朝ご飯の山菜のオハウと山で獲ったコケモモやグミを食べ、その後は午前中は狩人の父の手伝いや母の手伝いや掃除や洗濯を手伝い、昼には狩りなら干し肉や干し魚をかじり、コタンでは朝とは違う濃い目のオハウを食べる。午後は村の若者と共に剣舞の稽古。アシリカルの里では、戦士の七割が男子で女子が三割。力のある女子だけが刀を持つことが許される。日暮れ前に剣部の稽古が終わり、アシリカルはみんなの目を盗んでカントのいるニセウ林へと向かった。コタンから林への処理は大体十五分。朝と夕の二回でアシリカルは一日のうちの一時間半をカントとの時間に使った。
 アシリカルがニセウ林に入ると、ある光景を目にした。
「あっ」
 何とカントが羽ばたきの練習をしていたのだ。二色の羽をバサバサと音を立てて、ほんのわずかだが浮いていたのだ。
「わっ、すごい、すごい」
 アシリカルは言われなくても飛ぼうとするカントの様子を見て褒めた。しかし、地上から二尺(六〇センチ)のところでふんばりがきかず、カントは地面に降りた。
「カント、飛ぶ練習、始めたんだ」
「うん。森の鳥達の飛ぶ姿を真似して、やったけど……」
「いやいやいや。ちょっと飛べただけでもすごいよ。いきなり飛ぶのは難しいけれど、毎日続ければ、ちゃんと飛べるって」
 アシリカルはカントにそう言った。次の日は三尺半上に、その次の日は五尺とカントの飛ぶ高さは増していった。アシリカルは毎日の早朝と夕方にカントの様子を見に行き、カントのえさの川魚を獲って与えた。
 それから十日後――。カントはついにワシやタカのように飛べるようになったのだ。
ニセウ林を出て、カムイシレペツを一周するという成長ぶりである。そして食事も一羽でとれるようになり、大きなチライ(イトウ)やカムイチェプ(サケ)、それからマムシを獲って食べるようになった。アシリカルは飛べるようになったカントを見て、にっこり笑った。
「飛べるようになったのなら、もうカムイコロヌプリに帰れるでしょ。……ちょっとさみしいけど」
 カントがたくましくなったのは、アシリカルの親身になっての保護とカント自身の自立心のおかげであった。しかし、カントは首を振った。
「帰れるといってもすぐには帰れないよ。ぼく達フリィは時々下界に降りてくると云うけれど、実は下界に降りるのは一ヶ月に一度の満月の日の夜だけなんだ。満月がカムイコロヌプリへの出入り口なんだ。だから、まだ帰れない」
「……そっか。せっかく飛べるようになったのにね」
 アシリカルはカントを気の毒に思った。次の満月まで二十日はある。カントが無事に地上の林にいられるか心配であった。
「ぼくは大丈夫。もしアシリカル以外の人間がぼくを見つけても、言い伝えの通りに近づかないと考えれば」
「そうか。じゃあ、まだカントとは一緒にこの時間を過ごせるのか」
 それからアシリカルは、ふっとしながらカントに言った。
「カント、わたしね、一度でいいからこのコタン、いやこの国から出て世界を見てみたい、って夢見てたんだ。カントの飛べるようになった願いは叶ったけれど、わたしの願いは叶うことないのかもしれないね」
 そうぼやくアシリカルを見て、カントは言った。
「そんなことないよ。アシリカルの願いはぼくは叶えてあげる」
「えっ」
「だってアシリカルはこの十日間、ぼくの世話をしてくれた。なら、その恩返しをしてあげるよ」
「い、いいの?」
「うん、ぼくがいれば、アシリカルはどこだって行けるよ」
 アシリカルは顔が明るくなって、カントの首に抱きついた。
「ありがとうっ、カント! わたし、世界を見られるなんて、夢が叶って嬉しいよ!」
 ランコは「世の中そんなに甘くない」って言っていたけど、アシリカルの願いは叶った。
 人間の少女、アシリカルとフリィのカントの空の旅がこれから始まる。